月詠み 日々 細胞分裂

- 泡沫の妄想を放ちます -

「天の主釣り」


狭い飛空艇の操縦席。
唸るエンジン音に耳が慣れてくると震える鼓膜の更に奥、私の脳は静けさを感じ始めていた。
人には仕事終わりに一息つく趣味のようなものだと告げているが、本音としてはそんな気の休まるようなものではない。
雲を突き抜け、高度が安定してしばらくすると体がいつものようにがたがたと震え出した。
格安で仕入れたおんぼろのふたり乗り飛空艇では空調も自動操縦もあまり機能していない。
微かな隙間風が吹き抜けるおまけつきだ。
分厚い防寒着を身にまとったまま、狭い操縦席で身体をひねり、後ろの席に転がっている湯の入った水筒を手繰り寄せる。
こぽこぽと用意していたカップにお湯を注ぎ、インスタントコーヒーを啜る。
操縦桿に軽く手を添え、曇ったゴーグルを外し、窓に顔を近付けて夜空をうかがう。
上空は今日も大きく波打ち、その高波の奥で月が滲み揺らめいている。
天の川と聞いて、天体のことを思い浮かべる人はもういまい。
昔、夜空に瞬いていた数多の星は海底に揺らめく小さな泡の如く、しかし深い闇に沈んでしまったまま浮かんでくることはない。

 ー ー ー ー

天の主。
そう呼ばれるとても大きな魚がいる。
その魚は鈍色の鱗を身にまとい、大きさはといえばあの鯨を凌ぐほどだ。
皆がその存在を知ったのは、あの天変地異があってからの話だろうが、私はそのもう少し前から知っていた。
昔、一度きりだったが間近で見たことがあるのだ。
とはいえ、当時はその話をしても誰にも信じてはもらえなかったのだが。
あの日、自然環境が大きく変わった瞬間から、この星で生きる人々の人生は変わってしまった。
しかし、どうしてこうして、地表から水が消えて天に昇ってしまったのか。
現代の科学では解明することができないそうだが、とりあえず隕石の墜落でもなく、巨大地震でもなく、しかし文字だけならば「天、変、地、異」と表することができるそれによって、瞬間に天と地がひるがえった。
いや、厳密には、天に海が渡った。
今、私たちが住んでいた陸地には海はもちろん川、池さえもなくなり干上がってしまった。
大まかな水資源は天にのぼったのだ。
時おり、雨が降ることはあるにはあるが、雲より上の層でたゆとう海水がその下に雨雲を作り、そこから短い距離でまた天の海へと逆さに雨を降らす。
この異常な現象は、まるで人を地表に残し苦悩する姿を嘲笑うかのようにして、魚などの海洋生物も一緒に天に連れ去ったのだった。
人が水や海産物を再び得るには、上空を漂う海から引っ張り降ろさなければならない、ということだ。
その為、漁には飛行できる漁船から釣り糸や網を伸ばして獲らなければならなくなった。


「ピー、ポポッピー」
レーダーが後方から大きな飛空艇の接近を示す。
振り向けば、その漁船タイプの大きな飛空艇が遠くからやってくるのが目視で確認できた。
帆をはためかせながらスピードを落とすことなく接近してくるので、大袈裟に大きく舵をとって避ける。
それでも漁船タイプの飛空艇が過ぎ去った後、空気の渦にこの小さなおんぼろ飛空艇はがたがたと音を立てて震えてしまう。
ようやく船体が安定した頃、先の空では幾筋かの眩い光が交錯し始めた。
なるほど、おんぼろな飛空艇の魚群探知機にはまだ表示されないが、あそこが今日の漁獲ポイントらしい。
他の漁船もそこへ群がり始め、空に光の溜まり場があっという間に出来上がった。
私はズボンのポケットからプラスチック製のおもちゃを取り出す。
こんなものがあの天の主の居場所を知らせるのだと言って、誰が信用してくれるのだろうか。
微かな赤い光を発しているが、その光の弱さからして近くの海には奴はまだ姿を現していないようだ。
奴は賢い。
うねる海底の奥深くで、じっとその時を待っているのだろう。

ー ー ー ー

巨大な商船タイプの飛空艇を見つけたので、そこに身を寄せることにした。
おんぼろの飛空艇を甲板に預ける。
このとんでもなく大きな商船タイプの飛空艇は空にいくつか点在している。
利用するためにはもちろん支払うものがある。
支払いは専用の通貨か燃料だ。
商船は漁船が持ち込んだ海産物で商いをしている、いわば漁港のようなものだ。
また燃料を高く買い取ってくれるが、逆にここで燃料を補給することになると高額な金額を支払うことになる。
私はおんぼろの燃料タンクをそこまで信用していないので、いつも自国の通貨を両替して支払っている。
両替手数料込みで考えても自分の命には代えられない。
まぁ、これまでにつぎ込んだ飛行代でもう少しましな飛空艇も買えたのだろうが、深くは考えてはいけない。
 
遠くで大型漁船が海から魚を引きずり下ろすのを横目に、私は商船の甲板から釣り糸を浮かべて時間を潰していた。
遠くの空が明らみ始めた。
この待ちぼうけもあと30分が限度だというところだ。
そろそろ戻って寝ないと仕事に差し支える。
今日もこのまま天の主は姿を見せないのだろうか、と諦めかけていた時だった。
おもちゃの受信機の光が強くなった。
私は急いでおんぼろの飛空艇に乗り込んだ。

 ー ー ー ー

あの頃はまだ、波が大地に寄せては返してをくり返していた。
その頃に、鱗一つの大きさでも子どもの頭ほどある大きな魚を海原で一度だけ見たことがある。
あんなに巨大な魚が、いったいこれまで海のどこに潜んでいたのだろうか。
漁村で生まれ、小さな頃から海の上が生活の場のようなものだった。
そんな村の出の私でも、あんなに大きな魚の話は一度も耳にしたことがなかった。
だから、あの時は本当に驚きと恐怖、そして悲しみにおそわれたのだった。
当時、一日の始まりは父と一緒に朝から漁に出ることだった。
昼前に家に戻ると、そこからは母の元で勉強と家の手伝いをした。
それが終わると日が傾き始めていて、そこから暗くなるまでの残った間が、私に与えられた自由時間だった。

女の子との出会いがいつからだったかは思い出せない。
桟橋をわたって小さな舟に乗り、近くの無人島へ。
夕日に染まる海辺でいつものように女の子を待った。
その女の子は近くの島の、同じく漁村の出身だったという認識だが、これはもしかすると後々私の頭が創り出した話なのかもしれない。
知らぬ間に、一緒に遊ぶ仲だったのだ。
無人島で走り回ったり、果物を分け合ったり、夕日を眺めながらおしゃべりをしたり。
日が沈みだす頃、またね、と別れる。
そんな関係が何年か続いた。
そして、そろそろ恋の一つでもという年齢に差し掛かった頃だった。
海原で、寄りそって浮かんでいた女の子の舟が、とんでもなく大きな魚に丸ごと飲み込まれた。
一瞬の出来事だった。
私はひっくり返った自分の舟の底にへばりついて、ただ暫くその光景を反芻するばかりだった。
どうやって村に戻ったのかを覚えていない。
女の子を失った喪失感は随分とあとからくるものだった。
後から漁村の大人に聞いた話だが、そんな特徴の女の子はこの付近の漁村には居ないという話だった。
その証拠に、行方知れずの女の子が出たという話は一切なかった。
私は思春期の難しい時期を顧みず、大泣きしながら訴えたのだが、大人たちは困った顔をしたまま、ただ私の口から出る物語に何度も何度も耳を傾けるといった次第で、やがてその話も私からしなくなった。

私の初恋はそこで終わった、はずだった。
ところが大きくなった今でも、一緒に遊んだあの女の子の影を追っている。
発端は受信機だった。
おもちゃの受信機はあの主が姿を現す少し前、女の子に私がプレゼントしたものだった。
設定した者同士が接近すれば光を強めるという、発信機と受信機の両方の機能を備えたおもちゃで、当時の子どもたちの間に流行っていたものだ。
それを抱えたまま、あの大きな影の中に女の子は消えていった。
皆があの女の子の存在を認めなくても、自分だけは決してその存在を忘れまい。
そんな思いで身に着けていた片割れが、ある日再び光を放ったのだった。
それは上空に浮かんだ海原を、友人と一緒に飛空艇を乗り回していた時だった。
姿は見えなかったが、巨大な影が揺らめく太陽を長きに渡って塞いだのだ。
友人は慄いていたが、私はなんだかうれしくて心臓が高鳴っていたのを覚えている。
幻のような女の子。
なぜかその時、天の主と呼ばれる巨大魚は女の子とつながっているように思えたのだ。
もう一度だけでも、一目、あいたい。

 
飛空艇を海面ぎりぎりにつけ、受信機の光を頼りに天の主の影を追う。
途中、朝日が海底から姿をみせたが私は構わず操縦桿を傾ける。
飛空艇内を突き抜ける隙間風に、妙に懐かしい海の匂いが交じった。
 




 ー ー ー ー



…という妄想話でした。