月詠み 日々 細胞分裂

- 泡沫の妄想を あなたへ -

黒の時間


預金通帳を開いたまま、ATMのすぐ横で立ちつくす。
貧弱な残高を見つめていた。
当然のことながら一円も入金はされていない。
この惰性な生活も2年目に突入した。
今となれば、感情に任せて唐突に仕事を辞めたことを後悔している。
未だに振り込まれることのない未払い給与に期待しては、こうして病的に通帳記入を繰り返してきたがそろそろ止めにしないと。
嗚呼、今朝から財布を何度覗いてみても、500円玉が一枚とそのほかの小銭が数枚だけだ。

これまでずっと独り身を謳歌してきた。
それなりに貯蓄はあったものの、無職になり、自暴自棄となり、高が外れて散財した結果がこの様だ。
来年には50歳の円熟期を迎えるような男が、いよいよ本気でお金がない。
誰かそんな状況を察して救いの手を差し伸べてはくれまいか。
無理か。
そうか。

すれ違った若い高校生の男女が談笑しながらアイスクリームをスプーンですくって口に運ぶ。
せかせかと歩くスーツ姿の女がタバコをくわえながら誰かを電話口で叱りとばす。
のどが渇いたとせがむ幼児に自動販売機で飲み物を選ばせる母親。
何気ない、その選択が今の俺には簡単ではない。
出くわす自動販売機の前でつり銭口に手を突っ込むがどれもこれも手ごたえがない。
いつもよりも目の前に映る街が嫌に鮮明で、特に嗜好品の類が浮かび上がって見える。
突発的に盗みでも働いてしまいそうな、そんな衝動が起きそうな気がして恐ろしくてかなわない。
でも、そんな切羽詰まった状況なのにこの期に及んでどこかで何とかなるんじゃないのか、と思っている俺がいる。

濁ったため息を周囲にまき散らしながら、ふらふらと、しかし帰る場所はぎりぎり今月分の家賃を支払えた自宅アパートだけだ。
当てもなく彷徨う気力など既に捨てた。
意味もなくあーぁと声を上げながら布団に横になる。
腹が鳴る。
お金がない。
原因不明の耳鳴りが始まる。
眠れない。
ぐるぐると頭の中を、今さらどうしようもない後悔の日々が渦巻いている。
部屋の隅をぼんやりと見つめる。
机の上には結局形にならなかった脱サラの夢が散在している。
その横には埃を被ったギター。
ベランダの外には何日間も干し続けている洗濯物。

俺は何をして生きていたのだろう。
俺は何のために生きているのだろう。

「ダイジョーブ、なんとかなる」

そんな口癖を周りに振りまいて生きていた。
今はもう、こんな感じだけど、仕事を辞めるまでは案外うまくいっていたんだ。
そこそこの会社に入って、途切れることなく女もいて、遊びに没頭して。
まぁ、それも随分と昔の様にも感じるか。

毎晩続けていた寝酒を止めると言いようのない不眠に襲われたが、財布には現を抜かす余裕がない。
寝返りを、ありとあらゆる角度から堪能し終わった頃に深夜が訪れた。

 

 ・ ・ ・ ・


たぶん夢だ。
枕元に立つこの真っ黒な小さな人影はなんだろう。
黒い装束をまとい、フードを被っているのが何となくわかる。
表情は見えないが、お互いに見つめ合っているような気がする。

「金に困っているなら何か買い取ってやろう」

子どもの声で俺を見下ろしたまま語り掛けてくる。
金銭もろくに稼げなさそうな小さな背丈の影が。

「何か?なんでもいいのか?
 だったらそこに転がっている、そのギターとかでもいいのか?」

そこ、と言いながら体が動かせないことに気付く。
耳鳴りも相変わらず続いている。
金縛りにあっているようだ。

「物はダメだ。お前から買い取らせてもらう」

「俺から?…だったら、この耳鳴りを買い取ってくれ」

何気なく口にした言葉に小さな影が承諾したものだから驚く。

「今後一切、耳鳴りが起きないがいいな?」

こんなものいらねぇよ、と金縛りの中で唯一動かせる顔面をいっぱいに使って笑うと、

「商談は成立だな
 また来る」

という声を残して影は去っていった。

一瞬、意識が遠のいた後、突然朝が訪れた。
夢だったのかと、解かれた体を起こしてみると枕元に一万円札が置かれていた。
気味の悪さから、部屋中の鍵を確認して回ったがどこもロックがかかっている。
それから随分と長い時間、部屋の片隅から一枚の紙幣と睨めっこをきかせていた。
しかし、空腹に耐えられず、急に湧き上がってくる感情に押し流されるようにして紙幣を握りしめ外に飛び出していた。
コンビニに入るなりカゴを引き抜き、手当たり次第に品物を放り込んだ。
店員は慣れた手つきで一万円札を受け取ると、その紙幣は無事にレジに吸い込まれていった。
自宅アパートまで待てず、歩いたり立ち止まったりしながら、からっぽの胃袋に弁当、サンドイッチにおにぎりを敷き詰め、それの上から大量のアルコールを注ぎ込むとなんだか笑いがこみ上げてきた。
出所の不明なお金。
でも、お金はお金。
そのお金で今を満たすことが出来た。
俺はこの上なく幸せだと感じた。

その日の晩も、次の日の晩も、それからも。
小さな影は俺の枕元に連日姿を見せた。
そして、俺はその度に「俺のナニカ」を売って、その見返りに得たお金で暮らすようになった。

「虫歯、頭痛、歯ぎしり、皮下脂肪、危機感、涙、絶望感、親近感、ホクロ、優越感、鼻水、無力感、臍のごま、体毛、痒み、虚脱感、耳垢、虚栄心、同情心」

最初は本当に要らないと思うものばかりをお金に変えていた。
それによって俺という人間が精製されていくようにも感じられた。
なんだ、この取引は俺にとっていいことでしかないじゃねぇか、とそう思った。

しかし、それも毎晩売り続けること約一年。

「触覚、遠近感、嗅覚、爪、味覚、握力」

いよいよ自分がからっぽになってきた。
俺の身体は痛みを感じないし空腹も感じない。
悲しみはとうの昔に、喜びは先週に手放した。
感情と記憶を結び着けていた「思い入れ」の楔が外れると、唐突にただの断片的な記憶にしか感じられず、今週に入ってからは残っていた記憶を順に売り払っていった。

「もう、売れるものはないのか?」

小さな影の問いに視覚と告げた翌日から俺の目の前は真っ暗になった。
そしてその次の晩、暗闇の中で聴覚と呟くと俺は詰んだ。
目の前は真っ暗闇で何も聞こえない。
たぶん、こういう状況に這い出てくる感情や生理現象なりがあるのだろうが、既にそういう類のものを売却済な為なのか、どのように終わりを振舞えばいいのかがわからなかった。


 ・ ・ ・ ・


それからどれだけの時間が経ったのかは知れない。
自分のことだけはなんとなくわかる。
こうなった経緯も。

ツケが出来ていた。
大きなツケだ。
それは、俺が小さな影に売り払って得た何倍もの金額だ。
耳元でカラスがギャァギャァーと喧しい。
献身という考えなど元より持ち合わせていなかった俺が今、ツケの代償として世界の不幸をこの身に背負っている。
誰かが黒い装束に売って、誰も買い手のつかなかったもの。
例えば俺が売り払った耳鳴りや虫歯など、欲しがるものがいない代物が、こうして俺のようなペナルティーのある債務者に借金の形として当てがわれる。
耳元のカラスの鳴き声というのは、耳鳴りを何人分も受け入れた結果、なんとなくそれの鳴き声に聞こえるという意味だ。
その他にも沢山、不幸や忌み嫌われたものを身にまとっている。
全身などはこぶだらけで関節は腫れあがり、膿みと瘡蓋でまだら模様だ。
視界は波打つようにして乱れるため焦点が合わず、喉は焼きただれているのか僅かにしか開かず、声もしゃがれている。
それらも全て、ツケの返済のために承諾して受け入れたもの。
奇病の類を一つ受け入れることで返済の目途は経ったのだが、これは無限の苦しみだ。
早く、これを違う誰かに買い取らせなければならない。
まずは誰か目ぼしい人物をターゲットにしなければ。
そいつを腑抜けにした上で、この身にまとったものを売りつけよう。
それがこの黒い装束を身にまとったもののやり方だ。

不意に、誰かの言葉が降ってきた。
柔らかな口調で、諭すような語りだ。

「人生、いつからでもやり直せる」

それが内から湧いてきたものなのかはわからない。
まさか売り払わずに俺の中に残しておいた言葉などとは思えない。
嗚呼、たぶん、黒い装束を身にまとったものに刷り込まれる暗示のようなものではないか、と勘を働かせる。
どう考えても人とは違う存在として蠢く俺に、次の人生などあるはずがない。
あるとすれば、囚われの身からの解放くらいか。


 ・ ・ ・ ・



深夜の上空。
突然降り出した雨を合図にして、同じ格好をした、黒い装束をまとう者たちが飛び交う。
相変わらず耳元で鳴き喚くカラスが耳障りでならないのだが、なんだか俺自身がカラスになった気がしないでもない。
視界の先には多くの民家が鈍い光の合間合間に立ち並んでいる。
これから訪ねる相手が万が一、俺に見覚えがあろうが、俺には誰かを思う記憶などない。
俺は囚われの売買人。
自らのツケを返済するために安く買い取り高く売る。
ただそれだけだ。

 


 

 ・ ・ ・ ・

 

 


...妄想話でした。

 

檸檬

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