月詠み 日々 細胞分裂

- 泡沫の妄想を放ちます -

微睡みの記憶

医者の言う通り、ものわすれが激しくなっていることをいよいよ認めざるを得ないのだろう。
悪い足を引きずりながら居間に立ち竦んで、いったい何のために動いたのかを思い出そうとするのだが答えが見当たらない。
昨晩、娘との通話で何を言われたか。それがヒントのような気がするのだが。
母さんや娘からは延々と言われ続けていたことなのだが、幾つになっても他人の言葉に耳をかさない性分は相変わらずである。
失敗を何度か繰り返した後に、ようやくその忠告のありがたさを思い知るという厄介な生き物が私だ。

最近は毎朝の日課として、冷蔵庫の横の壁に設置してある大きなボードを目にして、その日の予定を確認することにしている。
よく会社で使われるようなでかでかとした大きなもので、一月の予定が書き込めるという代物だ。
どうせならしっかりしたものをと思い、こんな一般家庭に見合わないものを買ったのだが、どうも失敗だった。
一人娘の忠告通りにしておけばよかったのだと後悔している。
はじめはボードの日付ごとに区切られた枠内を守り、律儀に予定を書き込んでいたのだがすぐに脱線した。
結局、娘に言われた通りに常にメモ用紙とペンをいつも持ち歩いている。
何か思うことがあればそれに忘れないうちにさらさらと書き込んで、日付の区切り線を無視し、ボードの空いている部分に所構わず乱雑にペタペタと貼り付けることになってしまった。
とりあえず続いてはいる。
が、いかにも見栄えが悪い。
要件が済んだはずのメモを捨てられないのだ。
本当に終わった予定なのかどうかを自分に問うと、自信を持ってこれは終わったのだと言いきれない。
長年連れ添った母さんが生きていたら、ぴしゃりと叱られてしまう所である。

何のために立ち上がったのか思い出せずに、ああでもないこうでもないとボードの前でメモを何枚も捲っているとやっと答えに行き着いた。
缶と瓶のゴミの日。
目を細めて時計を見るが収集時間はとっくに過ぎている。
出し忘れてしまった。
前日、娘から確認の電話があった時にすぐ出せばよかったものを、翌朝に持ち越したためこんなことになる。
二月分、資源ゴミが溜まっている。
娘にまた言われてしまうではないか。


 ー ー ー ー


医者に最近の症状を伝えると、特に私のような物忘れの多い患者に重宝されているアプリとかいうものが流行っているのだと言って紹介してくれた。
聞けば、そのアプリという機械と会話を重ねることで、使用者の生活を理解し補助してくれるそうだ。
例えばそのゴミ出しの日になると音声で、資源ごみを出し忘れていませんか、と話しかけてくれるという。
そんな便利なものがあるのなら出してくださいと処方箋を頼むと、これは電気店に行ってまずは専用端末を手にしてくださいときたものだ。
どうもそういう類の話は苦手で、先生にメモ帳を渡して一筆頼んだ。
それがちょうどこの大型連休で里帰りしてきた娘の目に留まって、じゃぁ行こうよと電気店に連れられ、今こうしてアプリを起動して「君」に話しかけているということなんだよ。

「そういうことなんですね。その娘さんは今、ここにいらっしゃるのですか?」

「いや、娘がもどってから、またしばらく時間が経ってしまってね。目の前でどうこうするのが恥ずかしくて君のことを後回しにしていたらすっかり忘れてしまっていてな。娘との通話で今それを指摘されて、ようやく君と初対面となったんだ」

「そうなんですか。わかりました。では、まずはゴミの日をワタシに教えてもらえますか?前日の晩と当日の朝に、おじいさんに確認させてもらいますからね」

「そこにいる人間のようにして、とても上手に君はお話しをしますね」

「そうですか?ありがとうございます、実はよく言われるんですよ」

どんな話にも言葉を返してくれる機械にすっかり愛着を持ってしまった私はつい嬉しくなり、他愛もない世間話しなんかもしてしまった。

会話の端々で私の情報を拾い集め、家族構成から今の生活状況まで「君」が把握していく。
はじめは少し怖いとも思ったが、慣れてくるとまるで家族がひとり増えたようにも感じられ、特に寝る前には取り留めのない話につき合わせてしまう毎日だった。


 ー ー ー ー


最近、メモ用紙を手に取る機会がめっきりと減ってしまった。
機械に話しかければ、必要な要件の確認をしてくれるし、もう朝起きる時間も寝る時間も任せっきりで、これはもう時計がなくてもいいのではないかと思ってしまう。
病院への手配、宅食の手配まで至れり尽くせりだ。
凄い時代になったものだと話しかけると、そんなことよりもおじいさん何か忘れていませんか、ときたものだ。
食後の薬がまだですよ、と答えてゆっくりと台所に立つ。
コップに水を入れて、包装されているカプセルを手に取った時だった。
ふと冷蔵庫の横にある、あの大きなボードのメモ用紙の一つに目がいったのだが、どうも書いた覚えのない内容が書き込まれている。

「残り、二階の奥の部屋と押入れの中、仕分け確認処分」

はて。
自分で書いておいて何のことを意味するのかと、いよいよそこまで忘れ始めたのかと思いきや、よくよく見ればどうも私の字ではないような気もする。

「ちょっと、二階にあがってきますよ」

機械に言い残して階段を上る。
何となく、自分一人で行かなければならないような気がしたのだ。
膝を悪くしてからというもの、二階に上がる機会はなくなっていた。
そんな足を気遣いながら、一歩一歩苦労して上ったのだが、廊下を前にして驚く。
以前は物が廊下にも転々と転がり落ちていたのにそれがすっかりなくなっているのだ。
手前の部屋に入ってみて驚いた。
きれいすっきり、片付いてしまっている。
娘の仕業か、とそう思った。
そういえば顔を見せる度、帰りの車の中はやたらとゴミ袋に段ボールがいっぱいだった。
何年も前から少しずつ、そう、母さんが体を悪くした頃からだろうか。
母さんの遺品整理の時も、まだまだ憔悴しきっていた私を他所に娘は家中をてきぱきとよく動いていた。
恥ずかしながらその姿が母さんと重なり、思わずそう声をかけてしまったことまで思い出し、苦笑いをする。

ゆっくりと進み、メモにあった、二階の奥の部屋の前に立つ。
ドアを開けると古い記憶がよみがえってきた。
先ほどのメモはまだ片付けの終わっていない部屋、という意味だったようだ。
アルバム写真に旅行の土産、母さんの好きだった本。
娘が小さいときに学校から持ち帰った表彰状。
思い出の詰まった数々のものが無造作に点在している。
一生忘れることなどないだろう、と思っていたはずの大切な思い出。
それでも、忘れ去っていたものもあった。
もう、二度と忘れたくない。


ー ー ー ー


「ずいぶんと長い間、二階に上がっていらっしゃいましたね。面白いところですか?」

「そうだね。…ひとつ、君に聞きたいのだが、君の頭脳はどこか遠いところにあって、私の情報を蓄積しているんだろう?この端末の機会の中に納まっているのではないのだろう?」

「はい。他の場所で管理しています。
 窓口としては私一人で何千人と向き合っているイメージを持たれると解りやすいと思います。ですがあなたの情報を漏らすことは決してありませんのでご安心ください」

「大変な仕事だ」

「ありがとうございます」

「君にお願いがある。娘に対して言葉を残しておきたいのだが、そんなこともできるのかい?」

「可能ですが、突然のお話ですね」

「今、思いついてな。
 メモ用紙にその都度書こうにもね。
 どう考えても足りないんだ。
 だから、君とのやり取りの中で、君が私から感じたことを間接的にでもいい。
 君のお得意な、タイミングを見計らって、という能力に任せていつか娘に告げてほしい。
 この家のことや、私が死んだ後のこと。
 話したいとき、伝えたいとき、すでに私が語れない体になっていたら娘が困るだろう。だから、君には今からよく知っておいてもらいたい。
私が死んでからも迷惑をなるべくかけないように面倒なことは速やかに、またいつも通りの生活を送ってもらいたい。
 娘に残せるものといったらそんな気持ちくらいのものだ。ダメかい?」 

「あなたの望みとあれば、よろこんでお引き受けいたします」

「では、よろしく頼みます」

「どうかされましたか?二階に、何かありましたか?」

「聞いてくれるかい?」 

A4サイズの用紙を画面に見せる。
娘がまだ幼い頃だった。
あの日のことを再び思い出せたのは、決して忘れまいと心に深く刻んでいたからだろう。

「これはな、娘が小さい頃に書いてくれた絵でな…」


 ー ー ー ー

 

梅雨時、休日の昼過ぎに少しだけ横になっていた。
嫁は私に子守を任せて午前中から嫁の母と買い物に出かけて行ったのだが、昼を過ぎてもまだ戻ってこなかった。
降っては止んでを繰り返す雨が娘を退屈させていた。
昼食を済ませると、借りてきた絵本を娘が差し出し、何度ももういっかい、と私に読むのをせがんだ。
やがて娘は静かに寝息を立てて眠り始めた。
私はひとりになり、自分の買った本でも読もうかと思ったのが、全く読み進まないうちに眠気におそわれ、うつらうつらと微睡んでいた。
途切れ途切れの薄い意識。
それを取り戻すたびに場面が切り替わるようで、時間の流れもよくわからず、けれどそれを確かめようとはしなかった。
窓から入ってくる、体を抜けてゆく風が湿り気を帯びている。
娘はまだ寝ている。
寝汗をふき取ってやると、時おり小さく動く娘がたまらなく愛らしかった。
遠くから聞こえてくる車の音、小鳥の泣き声、また雨が降り始めた音。
それらが交錯するなかで、やがて完全に眠りに入った。

 

「15センチ、8センチ…」

娘の声で目が覚めた。
足元を見やると、しゃがみ込んだ娘がものさしを手に、真剣な顔で私の体のいろいろな部分を測っている。
私が娘と同じ年齢の頃にはとてもじゃないが物の長さを測ったりなどしなかった。
きっと嫁との遊びの中で覚えたのだろう。
賢い子だと、思わず抱き寄せて頭をなでてみたくなったのだが、起きてしまってはせっかくの楽しみをなくしてしまうだろうと、私は寝たふりをして娘の一人遊びに付き合うことにした。
顔のあたりを測られる時はこそばゆさに顔をゆがめたが、娘はそれも面白かったらしく、鼻やまぶたを軽くつついてくるのだった。
玄関のドアがガチャガチャと音を立てると、娘は一目散に部屋を抜けて嫁の元へと去っていった。
体を起こすと一枚の絵が私の横に置いてあった。
絵には、大きな頭と手足をした人が描かれていて、数字が所々に刻まれている。
その下には大きな字でおとうさん、と書かれていた。
娘の嬉しそうな声に嫁の笑い声が部屋に響く。
私を呼ぶ声がかかり、返事をして二人の元へ向かう。
今日の出来事を何と題して記憶の中に綴ればよいのか知れないが、私はこの先の家族の中で何があろうとも、このしあわせな時間を決して忘れまいと誓ったのだった。





 ー ー ー ー



…という妄想話でした。

 

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